強大な権力と闘うのはゲリラ戦と遊び心

昨日の田中ブログからの転写記事が好評だ、全共闘時代の田中は、嘗ては青雲の志を抱いた文学青年で群像新人賞も得ているとか、しかし今では回顧録や健康自慢の日々である、その点、昨年に死去されたアウトロー作家の宮崎学氏の生き方は著作「突破者の遺書」に余すところなく述べている、後付けと思われるが、「こうして、こうすりゃ、こうなるものと、知りつつ、こうして、こうなった」のであるから、我が闘争は憲政以来の司法崩壊を起こしたと自負している、因みに宮崎氏74才は老衰(?)で亡くなったと家族らは言っている、田中のように晩節を汚すことなくそこそこで消えたいものだ。

注 ホームレス支援する田中は原発爆発の放射能を特段に恐れ家の脇には海外産の水ボトルが積んでいる、奴のホームレス支援はブルジョワの余興だ、だから燃やせ殺せの坪井恐喝示談事件に関与するのだ

 

あれから10年が過ぎ、そこらに舞い落ちた放射性プルームが吹き払われ、あるいは土中に潜り込み、大部分は入間川の本流に流れ込んだとみて、私は2年ほど前から、連れて行くくん太とも死別していたが、一人で、脳梗塞のリハビリを目的に加治丘陵へ通い始めた。

1年ほど通ってみてわかったが、脳梗塞の半身不随は直らないばかりか、日に日に、ほんのわずかずつ、悪くなっているという事実だ。

そういうとき、渡米の出入国審査からワクチン証明証がいらなくなった。それで、何年も会っていない娘の孫娘に会いたくなった。体調はかんばしくなかったが、飛行機の中でも、デンバーに着いてからも、ほとんど横になって過ごしていたが、その日、突然救急病院に運ばれると、信じられないことだがコロナだ。

私ははじめっからコロナもコロナワクチンも薬の類いもどうでもよかったが、デンバーでの医療費だけは、経験からとんでもない請求が来ると分かっていたので、一日でも早く退院しなければとんでもないことになると分かっていた。

それで、あれこれ口からでまかせをいい募って、奇跡的に退院に漕ぎつけ、ふらつきながらも成田に、それからボロ家にたどり着いて、ただじっとしているだけの、ふがいない自宅療養にすがりついた。

コロナは考えていた以上に油断のならない、おっかない伝染病だ。

安静を永遠に続けても何だか直りそうもなかった。過去最低体重43.5キロまで痩せさらばえ、頬はこけ落ち、皮膚はボロボロ、まるで骨川筋エモンだ。

健康自慢する前に裁判所の支払い命令に従え田中清こと田中洌よ (suihanmuzai.com)